「ペンテジレーア」という異様な戯曲があると渋谷のカレー屋で速水さんから聞いた。 2013年の年末だった。 口頭であらすじを説明してくれて、それに対して「物語として破綻している」と言ったのを覚えている。 「ペンテジレーア」はハインリヒ・フォン・クライストが1808 年に書いた悲劇である。
これから少し、私がなぜこの戯曲と関わろうと思ったのか、書き留めたいと思う。
この文章についてあらかじめお断りしたいのは、いくつかのトピックが飛躍して書かれた印象になるということだ。
というのも、私にとっては、これらいくつかのトピックの間をいったりきたりの思考をすること自体が「ペンテジレーア」と関係を持つことであって、いろいろともっと滑らかな説明の仕方を考えたのだが、この方法が一番良いように思えたので、飛躍に関してはお許しいただければと思う。
渋谷からさかのぼること約2年半、2011年3月12日、要町のジョナサンで友人との会話中に以下のことに気がついた。
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自分にははっきりとした自己像がない。本来あるべきものがない、という感覚である。
だから自分について語ることが難しい。欲望、とかいわれるともうわけが分からなくなる。
自分以外の対象を認識したり判断したりする分には問題がない。 現に私は社会生活を営んでいる。
「自分で自分を」となったときにおかしなことが起こる。
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あの会話がなければ未だに私は問題の核心に近づく手だてを見つけあぐねていたかもしれないのでジョナサンでの会話が気付かせてくれた、と言った方が良いのかもしれない。
渋谷のカレー屋に戻り、そのころ私は芸術に関してこういうことを考えていた。
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他者の体験に直接触れることはできないが、芸術はそれを目指すべきである。 それは本来、語りえないものである。
(ここでの「語りうる」というのは「改めてそのものを現しうる」という意味です)
それは例えば災害や戦争によるショッキングな状況下でのものから、抵抗の手段を持たない孤立したマイノリティの語りがたい経験、あるいは万人が持つ子どもの頃の記憶の中の出来事というように多岐にわたる。
それを語りうるものとして取り扱うことは暴力である。
グローバリスムと市場主義経済がこの暴力でもって世界中に死角を生んでいる。
しかし、他方で、語ることは救いである。
これをそれとして意味付けることや、あれを過去として認識することが、ひたすら均質に持続する現在時に雲散霧消していく「私」を留まらせ、ここにあるものとして肯定する。
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この芸術の一側面に関する考察を通じて、ジョナサンでの気づきをもう一度とらえ直すとこのように思えた。
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自分に自己像がないことの原因は 今の社会が原動力としている(形をなすために参照し続けている)神話のレパートリーに何らかの理由で私自身がコネクトできないからにちがいない。
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そこで破綻した物語であるらしい速水さんオススメの「ペンテジレーア」を岩波文庫の復刻版で読んでみた。
旧字体の海をかき分けながら、おおむねこのような話だと読めた。
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「ペンテジレーア」は、女性のみで構成されるアマゾネス族の女王ペンテジレーアがギリシア民族のアキレスに恋をし法に背き破滅する話である。
遠い昔に種族の男性すべてを異民族に殺され、女性は全員レイプされ子どもを産んだおぞましい出来事の復讐として、アマゾネスは男性一般を対等な人間としてでなく、生殖のツールとしてとらえ女性のみをその構成員とする道を選んだ。
戦いで捕虜とした男性を一定期間かこって、セックスをして国に返す。 男の子が生まれたら殺し、女の子であれば戦士に育てる。
にも関わらず、ペンテジレーアの母オトレーレは死の床で「アキレスを相手とするように」と言い残す。
戦場でアキレスを見たペンテジレーアは恋に落ちる。
ペンテジレーアはアキレスに個人として接しようとするが、それゆえ最終的に破滅する。
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思ったほど破綻はしていなかった。 それどころか何かにひたすら忠実に積み上げられた石垣が結果として異様な形になっているように思えた。
この時点での私のクライストに関する予備知識は「O公爵夫人」をロメールの映画で見て「チリの地震」のあらすじをネットで読んだ程度で、しかもそれらが同じ人の作だとは気付いていない程度のものだった。
さて、 ドイツ語が読めない私は2014年10月から数回、カレー屋ではなく駅の反対側の喫茶店で、ドイツ語が読める速水さんと「ペンテジレーア」の読み合わせを行った。
そこから私は大筋で以下のようなことを考えた。
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① クライストは心のうちの真なるものの存在を信じている。 それがあるゆえに人は他と区別され、個人となりうる。 さらにクライストは、真なるものを信じるためにおこす行動は、外の掟や境界線を攪乱するものだと思っている。
② 同時にクライストは一貫性のある個人という概念に挑戦している。 というのもペンテジレーアの行為を成り立たせているのは、祖先から受け継がれてきた神話の再演を余儀なくされる彼女の運命や、母の言葉が彼女の内に植え付けた欲望であるからだ。
また、彼女はしょっちゅう忘我の状態に陥り、自分で自分がなにをやっているのかわからなくなる。
ペンテジレーアにとっての自己というものは一つの時間軸の上で一貫したものとして構成されていない。
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①と②は矛盾しているように見える。 内側に真なるものをもっているアウトスタンディングな個人と、いろいろな外的な要因に影響され出来上がっているある人物、と。
この矛盾は、はじめに書いた「自己像の話」と「語りえないものの話」と関係があるように思われた。
実はこの読み合わせをするにあたり、速水さんの提案で私たちはバトラーの『権力の心的な生』の「権力への振り向きの再演」に対する考察を読みの共通の出発点に設定していた。 (このあたりの研究は後日改めて書く予定)
この出発点が、私がかねてから向き合いたいと思いつつ、あまりの問題の大きさに恐れをなして見えないことにしていた心的外傷の世代間継承の問題を、再び浮き上がらせた。
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心的外傷の世代間継承とは
ある出来事が心になんらかの痕跡を残す、そしてそれがある行為を引き起こし、その下の世代に影響を与えてまた別な痕跡を残す、これが続いていくことだ。
例えば、兵士として戦場に行って人を殺す。
心に傷を負い、故郷に戻り自分の子どもをもうけたが対面できず無視してしまう。
その環境で自己形成した子どもは、受けとるべき愛情が欠落するという親とは別な形で心に痕跡を受け、その痕跡が次なる行為を生む。
次なる行為とは、DVなどの他者への肉体的な暴力から、自分を痛めつける過労、あるいは鬱、引きこもり、焦燥感、名前のつけられない心的な現象まで、幅広い。
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かなり単純化したが、このようなことだ。 これは個人についてだけでなく、社会についても同じことが起こる。
ある過去の出来事による傷を覆いかくし、現状を現状として保とうとする力がひずみを生んで、その次の世代に影響を与えていく。
出来事は形を変えて繰り返される。 (「山の音」とか「お茶漬けの味」とか、50年代の日本映画の多くを気付けば自分はこの連鎖のうちに見ていた。)
こういう状況は語りえないものを語らずにはいられない人を生み出すし、ある感情を心の内に把握していても把握している自己の全体を把握できない人も生み出すだろう。
もちろん私個人の状態とは比べものにならないレベルだとは思うが。
だからまずはこの心的外傷の世代間継承の枠組みでもって「ペンテジレーア」をなんらかの形にしてみたい。
神話とは出来事の一回性に基づいた語りの方法であるが、 出来事を、あらかじめ再演を内にもつものとして見てみようというわけだ。